「おや、おそろいで」
後輩はわたしたちを見上げると、いつもの感じのいい笑顔を浮かべて言った。あれ、でもここで食べるの珍しくないですか。
今日は中で食べる日なんです。
わたしの部下でもある新入り女子が応じた。
レストスペース、という曖昧な名前で呼ばれているこの部屋は、主に社内のクリエイティブ部門の気分転換のためにもうけられたはずの空間ではあったが、実体としては業務中は休憩室、昼休み中は食事場所、繁忙期の夜は仮眠部屋、と状況に応じて酷使されていた。
水曜日はカロリー制限の日、と新入りは宣言し、少なくとも外食はしないというルールを自らに課していた。そして実際にかなりストイックな昼食をとっていた。最近はわたしも便乗することが多くなっていた。自分より小柄で細くなによりはるかに若い相手に張り合おうなどとは考えもしなかったが、その習慣自体はたぶん悪いものではなかったし、自分ひとりで努力するよりも他人に乗っかる方がいくらか楽ではあった。
後輩は社内の他部署の友達に渡すものがあってここで待ち合わせているが、相手の出ている会議が終わらないらしくまだ現れないのだという。
「渡すものってこれなんですけどね」
そう言って後輩はトップローダーに入った一枚のカードを見せてくれた。プレミアム・カードの——オラクルにしたがうなら——《破滅の伝導者》だったが、実際はカード名の欄には《破滅を導くもの》と印刷されていた。
裏はこうなっています。
後輩はトップローダーを裏返した。そちらには「本物の」《破滅を導くもの》(の、プレミアム・カード)が入っていた。
え? あれ?
新入りが戸惑う。両面カード? じゃないですよね?
両面カードは表裏でカード名違うからね。これは二枚背中合わせに入ってるだけで、表と裏は別のカード。
あれ、でもおんなじ名前だったような……。ちょっと借りていいですか。
新入りはトップローダーを手に取って、二回ほど表裏表裏とひるがえしてカード名を見た。おんなじですね。
「日本語版ではこの2枚に同じカード名が印刷されちゃってるんだよ」
わたしは説明した。「もちろん元々の英語のカード名は違うんだけど、和訳がかぶっちゃって」
…………。
新入りが首をかしげた。どうしてですか?
さあどうしてでしょうねえ。
「なんでこれが防げないんでしょうね、ほんとに」
後輩も首をかしげながら言った。
日本語のカード名の重複は、初期にはあまり見られなかったが、インベイジョンの《抵抗+救出》あたりからちらほら起きはじめ、最近ではギルド門侵犯の《爆弾部隊》に至るまでコンスタントに見られるミスだ。一番有名なのはたぶん《ファルケンラスの貴族》で、こちらは構築でよく使われる方が変更されてしまったので影響が大きかった。
これ、どっちも戦乱のゼンディカーですよね。
新入りが聞いてきたのでわたしはうん、と答えると、そしたら、それこそエクセルとかでも防げそうな気がしますけど。一覧表とか作らないんでしょうか。
そこら辺の工程はわからないけど、印刷所にはデータを渡すはずだからまあなにかしらは作るよね。
過去のカードとだけ突き合わせてて、うっかり今回追加分のおたがいの重複をチェックしてなかった、みたいな可能性はあるかも、とわたしは一応弁護してみたが、後輩はにべもなく、それだって一回やらかしたら学習しそうなもんじゃないですか、と両断した。まあもう 10 年前になっちゃいますけど、神河物語のときやってますよね。
おっしゃるとおりです。
どうするんですか、これって。新入りが聞いた。再版のとき直すんですか。
大昔はカードを重版していたが(日本語版の《呪われた巻物》は初版にだけ誤植があるのはよく知られた話だ)、もうかなり前——おそらくウルザブロックぐらいから再版はしていないという旨をわたしは説明した。ワンロットで全部作って出荷のタイミングだけ調整しているのだろうとは思うのだが、詳しいことはわからない。とにかく、間違えたらそのセットの分は全部間違ってるから、訂正を出すしかない。
「具体的に言うと、レアの方が《破滅の伝導者》って名前になってるよ」 後輩が補足した。
「……ややこしいですね」
新入りがつぶやくように言い、それから少し考えながら続けた。「たとえば、あるカードについて、あたしみたいなのが、調べようと思ったら、カード名で調べるじゃないですか。でもそうするとこっちは出てこなくて——」 トップローダーを裏返して、「——こっちだけ出てくる。……ってことですよね」
それがまさに問題。
わたしは言った。だから、カード名の訂正ってのは本来あり得ないことなんだよ。
マジックのルールでは、あるカードのアイデンティティを保っているのはまさにカード名に他ならない。イラストや枠は再録のたびに変わりうる。コレクターナンバーも同様だ。マナ・コストは不変だが一意性はない。テキストはオラクルに書かれていて、それもカード名がなければ参照すらできない。いわゆる拡張アートをほどこす時のガイドラインは「カード名とマナ・コストは見えるように残すこと」だったはずだ。《沼》のイラストが印刷されてしまったドイツ語版《蠢く骸骨》——通称“沼ルトン”ですら、カードとしては《蠢く骸骨》として扱われる。そこはもっとも根本的なルールなのだ。
だからこのミスは防いで欲しかったんだよね、とわたしは言った。
もったいないですよねえ。後輩も言う。折角誤訳減ってたのになあ。
減ってたよね?
減ってました減ってました。あの声明出してから、ほんとに減ったんですよ。あの、あなたが僕に『人を叩く時は相手をよく見なくちゃ駄目だ』っていうありがたい教訓をたまわったときの声明。
……そんなこと申し上げたかしら。
……。
後輩は少しの間わたしをにらむように見つめたが、やがて小さく息をついて首を横に振った。
そんなに誤訳って多かったんですか、と新入りが割って入るように聞いた。
一時期ひどかったんだよね。
後輩が応じる。ドラゴンの迷路では、些細なのも含めると七枚も誤訳というか誤植があって。スモールエクスパンションだから 150 枚とかしかないんだよ。それで七枚だから、さすがにやばいよね。
……そうですね。
それで、ウィザーズの日本法人がとうとう、改善しますっていう声明文をサイトに載せたんだよ。それ以来明らかに誤訳は減ったから、たぶん工程か関わる人数かその両方か、体制を大きく変えてることは間違いないと思う。
http://mtg-jp.com/publicity/020563/#
マジック:ザ・ギャザリング日本語版の翻訳に関するお知らせとお詫び -- 2013-05-02
ドラゴンの迷路の発売後に出されたこの短い「お知らせとお詫び」——すなわち後輩の言う“声明”の中では、具体的な改善に着手する旨が明記されていた。それから二年と四ヶ月。三つの基本セットと七つのエクスパンションが発売されたが、その中ではカードの機能に影響がある誤植は三枚だけだ。地名と人名を取り違えている、といった誤りを含めればもっと多くなるし、もちろんそれはそれで減らすべき誤りではあるのだが、しかし機能に関わらない部分の誤訳は減らすことがより難しいし、それでいてカードゲームとしての出来に寄与する部分は相対的に小さい。限られた時間と人員でできることの中で優先順位が下がるのは仕方のないところだろう。
このタイミングでってのもあれだけど、誤訳が減ったことは評価すべきだね。
たぶん全然話題になってないし気の毒でもありますよね。
後輩も言う。よくやった、翻訳チーム。あともう少しだけ頑張れ。
なんか上から目線じゃない?
あ、すいません。ありがとうございます、頑張ってください。で。
よろしい。
あれ、なんでおれがダメ出しされてるんですか。
きびしいですよね、サキモトさん。
やりとりを横で聞いていた新入りが、くすくすと笑った。


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「教訓」のくだりは第 17 回を参照。→http://drk2718.diarynote.jp/201305130048233481/

コメント

re-giant
2015年10月24日2:31

誤訳(私は軽い)や迷訳(ぐるぐる)はさておき、同一カード名だけはゲームの進行に直撃するので「翻訳」ではなく完全に品質の問題ですよね……そもそも重複チェックって、英語とか日本語とか関係ないですし (´・ω・`)

高潮の
2015年10月25日0:31

そうですよね。自分は誤訳をなくすことは不可能ではないまでも現実的でないと考えていますが、重複は簡単に防げるように思うのです。逆のエラー(再録カードに別の訳をあてる)も起きているので、工程のそのあたりに欠陥があるのではないかと考えてしまいます。

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