翻訳について

2011年7月21日 TCG全般
サブタイトル大きく出てみましたけど単なる生存報告です。M12 のプレリリースは 1-1-2 という極めてコメントしづらい成績だった上に時期を外したのでレポートはやめときます。あ、本家には書いたのでどうしても読みたい人はそちらをどうぞ。

閑話休題。

ペンティーノさんが面白いことを書いていたので、今更ながらちょっと反応してみる。元記事は
七転八倒MTGONLINE -- 雑記0709
http://biggbo.diarynote.jp/201107092127068536/
なのでまずそちらを読んで欲しい。翻訳に少しでも興味がある人(そしてこの文章に目を通す暇がある人)なら必ず読むべき記事である。
特に面白かったのは、言語を置き換えることによって伝えるべき意図から文章が離れてしまうことを分度器で喩えた以下の部分だ。
5度刻みの分度器と7度刻みの分度器があったとして26度を読むとして。ここでまず7度刻みの分度器で測る→その値を直近の5度刻みに置き換えるという操作をしたとすると、26を28と読んで28と直近の30と読んでしまう。最初から5度刻みで測ればより25度として測れたのに。

コメント欄ではベン図という言葉を使っている人が居て、そちらの方が起きている現象としてはより正確な喩えだ。ついでに言えば言語学的にはシニフィエとかシニフィアンとかいう概念に関係がある話で多分基本的なことではある。でもこの分度器の喩えは実にいいと思った。人によってはぴんと来ないかも知れないけど。

個人的に一番ひっかかったのはその下の部分。
人が頭で考えているのは刻み幅とかなにもないアナログな絵。言葉は床の上に敷き詰められているタイル。そのアナログな絵に近いものを、50×100のタイルの境界線に沿って書きなおす、その作業が文章にするということで、

実は、おれには全くそんな風に思えない。自分が頭で何かを考えるときは、常に言語の介在を必要とするからだ。思考というのは「まだ見ぬ文章を黙読する」感じに一番近い。つまり、思考の時点で既に 50×100 のタイルが敷き詰められている。言語が文章のあり方を規定するというよりは、言語は思考のあり方を規定しているようにおれには思える。でも、これは極めて個人的な感覚に拠っている洞察だ。もしかするとたとえばペンティーノさんは、アナログな絵のように思考をしているのかも知れない。

そんなことも含めて、面白い文章でした。

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